ピラティスの歴史

1880年

ドイツ、デュッセルドルフ近郊の小さな町、メンヒェングラートバッハで生まれる。 四人兄弟であった彼はくる病、喘息、リウマチ熱などに苦しむ幼年時代であったが、病を克服するためにいくつもの身体訓練法やスポーツ(ボディビルディング、体操、スキー、ダイビングなど)を行い、14才になるころには解剖図のモデルになるほどの健康体になる。父は体操選手、母は自然療法師であったことが、その後の彼の人生における運動と健康という分野の研究に影響したようである。東洋と西洋両方の身体訓練法を研究し、とくに身体と心を完成させそれを維持するという、古代ギリシャとローマの哲学に大いに触発させた。

1912年

弟とともにイギリスに仕事をしに行く。 (仕事の内容は定かではないが、ボクシングを追求するためとも、サーカスの一員としてともいわれている。)

1914年

第一次世界大戦勃発。イギリスで捕虜になり収容所に抑留される。当初はランカスター、そして後にマン島へ移る。 この期間に仲間の捕虜の体力と全般的な健康の回復を手助けすることを始める。これが後にコントロロジーと名付けられる身体調節法(現在のピラティス・メソッド)の始まりである。また、ベッドからスプリングを取り出して、寝たきりの患者の為に運動用の器具を作り上げた。これは彼が最初に発明した器具である。

1918年

世界的な規模でインフルエンザが流行。数万人のイギリス人を含む何百人もの命が奪われる中、彼の同朋たちは一人もこの病気に倒れなかったという。戦後、ドイツへ帰りハンブルグの軍警察を訓練し始める。また個人の顧客も教え始める。 このころのことはあまり記録されていないが、ホリスティック・メディスン、瞑想、モダンダンス、ホメオパシー、トリガー・ポイントセラピー、呼吸法などの東ヨーロッパのホリスティック・セラピーに興味を持ち始めた時期であるといわれる。 また、ムーブメント・アナリストとして有名なルドルフ・フォン・ラバン(ハンガリー)はピラティスと出会い、自分のメソッドにピラティスの理論と運動を取り入れたとされる。ダンサーとして、また振り付け師としても有名なマリー・ウィグマン(ドイツ)は、ピラティスの生徒であり、自分のダンスクラスのウオーミング・アップにピラティスの運動を取り入れたとされる。

1925年

ドイツ政府から新しい軍隊の訓練を頼まれるが、当時のドイツの政治的傾向を好まず、アメリカに移民することを選ぶ。 ボクシング•マネージャーのナット•フライシャー(アメリカ)と、のちにヘビー級の世界王者となるマックス•シュメリング(ドイツ)に渡米をすすめられたこともピラティスの背中を押したといわれる。アメリカへの途上、未来の妻クラーラと出会う。

1926年

ピラティスとクラーラはニュ―ヨークに到着。八番街の939番地の2階207号室にスタジオ(彼はジムと呼んでいた)を開設。 当初はボクシング•ジムの中に開業したが後にその権利を引き継ぐ。近くにはリンカーンセンターや、カーネギーホール、ブロードウェイがあり、同じビルの中には、ダンサーやバレリーナが練習するためのダンス学校やリハーサル•スタジオがあった(現在でも当時のまま使用されている)。 ピラティスのうわさは口伝えに広まりその顧客はギンベル家やグッゲンハイム家などのニューヨークの上流階級の人々やビビアン•リー、サー•ローレンス•オリビエ、そしてキャサリン•ヘップバーンやその他の映画スター、医者、ビジネスマン、ダンサー、音楽家、サーカス芸人、体操選手、職人、学生など多岐にわたった。

1930年~1940年

アメリカン•バレエとモダンダンスの有名、無名のダンサーや振り付け師がピラティスの下で学んだ。 テッド•ショーン、ルース•セント•デニス、ハンヤ•ホルム、アレグラ•ケントなどもその中にいた。ジョージ•バランシンは自分の教え子のダンサーがけがをすると治すために”アンクル•ジョー”(ジョセフ•ピラティスのこと)のスタジオへ送ったという。 コントロロジーは多くのダンサーにとってなくてはならないものになった。 その中に、後にファースト•ジェネレーション•ティーチャー(ジョセフ•ピラティスに直接学んだ先生)とよばれるカローラ•トリエー、イブ•ジェントリー、ロマーナ•クリザノウスカ、ロン•フレッチャー、キャサリン•スタンフォード•グラント、ブルース•キング、ロリータ•サンミゲルもいた。多くの場合、彼らはスタジオでアシスタントをして、セッション費用の代わりとしていたという。ピラティス夫妻のアシスタントにはジョセフの姪、マリー•ピラティスもいた。

1934年

『ユア•ヘルス』を出版。1939年から1951年まで、ピラティス夫妻はバークシャー•マウンテンのジェイコブス•ピローで毎年夏に行われる、ダンスのキャンプで教えた。

1945年

『リターン•トゥ•ライフ•スルー•コントロロジー』を出版。このころ自分のメソッドを熱心に宣伝している。 医師たちに向けた実践講習を行ったり、ニューヨーク地域に配備された軍隊を指導したり、運動のパンフレットを作ったり、オリジナルの器具をメイシーズ(百貨店)で土曜日に販売していたりしたという。 親友であったレノックスヒル病院の整形外科局長ヘンリー•ジョーダン医師は、ピラティス•メソッドの熱心な支持者だった。ジョーダン医師は多くの患者をピラティスに紹介した。またピラティスの教え子の一人であるカローラ•トリエーをそばに置いた。彼の生徒の何人かは優秀な外科医になり、患者をピラティスやカローラ、その他の若手の教師の下へ送った。

1950年代

売り込みの甲斐なく、彼のメソッドは医療や教育制度の主流とならなかった。医学会の無理解に彼は深く悲しんだという。

1965年

百貨店のヘンリベンデルの中に、2番目のスタジオを開く。開設当初から1972年までは彼の教え子であるナヤ•コーリーが、その後1988年に閉めるまではやはり教え子の一人で現在もニューヨーク大学ティッシュ校で教えるキャサリン•S•グラントが指導した。

1966年1月

8番街のスタジオのあるビルで火災が発生。できるだけのものを持ち出そうとしたピラティスは、焼けた床板を踏み抜き落下。消防士に救出される。

1967年

80代のほとんどを研究と指導に費やしたジョセフ•ピラティスは86歳でこの世を去る。

1968年

イブ•ジェントリー(1909~1994)がニューメキシコ州サンタフェにイブ•ジェントリー•スタジオを開設。

1971年

ロマーナ•クリザノウスカがピラティス•スタジオを引き継ぐ。 同年、ロン•フレッチャーがロスアンゼルスのビバリーヒルズにロン•フレッチャー•スタジオ•フォー•ボディ•コントロロジーを開設。 多くのハリウッドのセレブリティーをはじめとする顧客を集め人気となる。

1976年

クラーラ•ピラティス、この世を去る。彼女は1970年までスタジオを続けた。

1983年

サンフランシスコのセント・フランシス・ホスピタルの著名な外科医であり、スポーツ医療とダンスリハビリテーション部門の長であったジェームス•ゲーリック医師は、初めてのダンス•メディスン•クリニック(ダンサー専門外来)を作った。彼はロン•フレッチャーに協力を求め、初めての医療的なピラティスのプログラムを作り、病院にピラティスの設備を設けた。

1989年

ロマーナ•クリザノウスカは2度目の引っ越しの後、ピラティス•スタジオを閉める。彼女はやはりニューヨークにあるドラゴ•ジム(体操のトレーニング•ジム)の中に自分のスタジオスペースを作る。

1990年代

コントロロジーは”ピラティス”としてさまざまなメディア等で取り上げられ、次第にアメリカ各地に浸透して行く。また海外へも広がり始める。

1996年1月

”ピラティス”という言葉を商標登録するか否かで集団訴訟がおきる。

2000年10月

裁判所の判決により商標登録はキャンセルとなり、”ピラティス”は『普通名詞』となる。その後もコントロロジーはピラティスという名前で知られるようになり、たくさんのピラティススタジオができ、ヘルスクラブも競って採用し、さまざまなバージョンの器具が作られ、ピラティスのインストラクターを養成するコースが各地で開催される。

2009年

世界中の主要国で教えられており、ピラティス人口は1200万人を超える。 ニュ―ヨークの八番街、939番地の2階207号室にあるスタジオは、ピラティスのメッカとして今でも運営されている。

* ジョセフ•ピラティスの出生については、1883年12月9日生まれという説もある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ピラティス・メソッド#.E6.A6.82.E8.A6.81

PilatesPlus |ピラティスプラス

日本のピラティス情報マガジン |ピラティスプラス Web版・ピラティスのAll Aboutがここにある